保土ヶ谷の宿

 考えてみると、保土ヶ谷の宿で給仕に出た女中が、頻《しき》りに手指を掻いていたのを思い出した。あの女中から伝染《うつ》されたのだと思ったが、どうすることもできなかった。彼は、大事を決行する前に、たとい些細《ささい》な病《やまい》にしろ、こうした病に罹《かか》ったのを悔んだ。彼は、黒船に乗るまでには、少しでも治療しておきたいと思った。彼は、下田から一里ばかりの蓮台寺《れんだいじ》村にある湯が、瘡毒《そうどく》や疥癬《しつ》にいいということをきいたので、すぐその日、蓮台寺村に移って入湯した。 翌二十一日の午後、ペリーの搭乗している旗艦《きかん》ポウワタン船《ふね》は、他の三隻を率いて、入港した。 二十二日から二十六日まで、寅二郎と重輔とは、日に夜を次いで、黒船に乗り込むことを計った。二十四日の朝、二人は下田の郊外を歩いている夷人《いじん》を追いかけて、予《かね》て認《したた》めていた投夷書《とういしょ》を渡した。蓮台寺村の湯の宿へは、下田へ行って泊るといいながら、二人は毎夜海岸へ出て黒船の様子を窺《うかが》った。そして疲れると、そのまま海岸で露宿した。 二十五日夜には、下田の村を流れている川に繋いであった舟を盗み、川口の番船の目を忍んで海へ出た。が、その夜は波が荒く、重輔の未熟な腕では、舟が同じ所をぐるぐる回転するだけで、いつまで経っても、沖へは出られなかった。綿のように疲れて、柿崎の浜へ引っ返すほかはなかった。二人は浜辺の弁天堂で、夜が明くるをも知らずに熟睡した。 その間も、寅二郎の疥癬《しつ》は、少しも癒《い》えないばかりでなく、どれもこれも、無気味に白く膿《う》んでしまった。彼は、大事の前の些事《さじ》としてなるべく気にすまいと思ったが、身体中に漲《みなぎ》る感覚的不快さをどうともすることができなかった。 二十七日の夕方、柿崎の浜辺へ出てみると、意外にも、ミシシッピー船《ふね》が、海岸から二町とない沖合に停泊しているのを見た。それから、半町も隔てずに、旗艦のポウワタン船が錨《いかり》を下ろしている。二、三日前から、港内を測量した結果、停泊の位置を変えたらしかった。寅二郎と重輔とは、小躍りして欣《よろこ》んだ。その上、弁天堂のすぐ真下の渚《なぎさ》に、二隻の漁舟が繋ぎ捨ててある。ちょうどその舟を盗めといわぬばかりに。

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